TJ先生2009/08/07 01:17:08

明日は、同僚のOさん、お休みの予定。
数年前、手術をした場所に、嫌な兆候があるから病院に行ってくるとのこと。

今日の編集長。
腰痛に耐えながらの出社。もう10年ほども前だったか、彼は癌の手術をしたのですが、無事に生還。以後はまったく順調だったし、きっと、今もそうに違いないのでしょうが、編集長もOさんと同じく、「前と似てるんだよね」と、憂かない表情だった。

F社編集部のO本さんから、再三のメール。
TJ先生の体調がすぐれないらしいとのこと。大学の授業や講演前には、辛い副作用がくる時間を回避するため、時間を計算して薬を服用。そうやって日々を乗り切っているらしい。

F社編集部が探していた連載執筆者に、TJ先生が適任では? と何気なく紹介したところから始まった先生とF社の関係なのですが、こうしてF先生の様子を知らせてくださるのはありがたい。

TJ先生は、私の青春時代から今の今に至るまで、大切な人。そんな、病気になっていただいては困るのです。私は勝手な人間だから、私が元気なうちは、先生も以前と同じように元気でいてくださらないと、私、泣きますよ。

ゴルバチョフ全盛期の、とある年の夏、ソビエト・レニングラード(現・ペテルブルグ)で、旅人同士として巡り会ったTJ先生と私。不思議なもので、単なる旅人同士なのに、レニングラードの街を一緒に動き回るのが、ごく自然になってしまった数日間でした。

TJ先生は研究のための滞在だったのに対して、私は2泊3日の予定。結局私は、いかにも旅人が回るであろう名所めぐりはあまりせず、植物とか、土の性質とか、草木多種、そういったものを求めて動き回るTJ先生に、なぜだかくっついて歩くのが、自然になってしまった2日間あまり。

私がレニングラードの旅程を終え、キエフに発つ日、ホテルからタクシーで鉄道駅に連れていかれるのを、見送ってくださいました(今は知りませんが、あの時代は自由旅行など出来なかったので、すべて、国営旅行者インツーリストの担当者に監視されており、滞在地を離れる時は、勝手に駅までも行けなかったわけです)。
その時の写真が、秋に、パリまで届いた時には、嬉しかった。

「TJ先生に、近々、お会いしようと思います」

と、F社の友人に、今日、メールで返事を出しました。

ひとり涙する日2009/07/12 02:41:31

今夜は、本当に感傷的だと思う。

でも、こうして・・・、
涙が勝手に、ほろほろと出てくる日があったって、いいんだ。こんな日が、あったって・・・・いいんだ。

今夜は、私の心が、たまには思いきり、自由でわがままにいたい・・・・、そういっているだけだ。

あの人を想うと、今夜はほろほろと涙が頬をつたう。
あとからあとから、とめどなく・・・・
とまらない・・・・

M先生のヴァイオリンの音色を思い出す。
するとまた、涙が増してくる・・・・

美しい思い出に、美しい音色に、私の心が触れたがっているんだ。ただ悪いことに、触れれば触れるほど、いつか来る別れを思ってしまう。

いつか将来、私は誰かから、あの人がいなくなってしまったことを聞くにちがいない。そんな日が必ずいつか来る。

受け入れられるの?
Non・・・・

こわい、そんな日が来るのがこわい。そう思うと、よけいに悲しくて悲しくて、涙がとまらない。

思い出を、抱えたまま、捨て去らないまま、忘れないままでも、前を向いて歩いていける、そんな台詞が、今夜のテレビドラマのなかにあった。「忘れなくても、いいんだよ、かかえつづけていいんだよ」。この言葉に、少し救われた気がして、そう思うとまた、今度は、安堵したように涙。

しようがない、こんな夜があったって・・・・たまにはしようがないよ。

ブルターニュ回想 32009/05/22 08:06:05

海辺へは、毎日、昼食後に出かけた。

決まって出かける浜辺は2か所。ひとつは近く。ひとつはちょっと遠く。

遠いほうの浜辺まで歩くときは、いろいろな家の前を通って歩く。海が目の前にあるというのに、大きなプールを備えているところもあり、そこで、ゆったりと家族がくつろいでいる。

青い空の下、明るい太陽の下で・・・・

日によっては、ショワズィック(フランスワーズおばさんの娘)の家族と浜辺で合流したが、今になって思えば、わたしはずいぶん、無愛想な客人だったとはずかしくなる。

おしゃべりをしない。会話にはほとんど参加せず、わたしはずっと、書き物をしていた。そうだ、必ずノートを持っていって、わたしは、何かをずっと書き続けていた。

時折、「彼女、まだ書き続けてるの?・・・」といった声が、少し離れたむこうから聞こえてくる。

いったい何を書いていたのだろう、私は。
どこかを探したら、今もこのノートは見つかるだろうか。
おそらく書き続けていたのは、自分自身の心の風景だったのだろうけれど。

あのとき、ショワズィックの娘のガエルは、まだ中学生ほどの年頃だった。そのガエルも、もう一児の母だときく。

ショワズィックの夫、ポールは、亡くなったときいた。もう、5年以上も前だったか。ポールは医者だったのに・・・。
医者の不養生とは、どこの国も同じなのかもしれない。

ブルターニュ回想 22009/05/21 07:47:08

なんとなく、見覚えのあるような気がする灯台。

ブルターニュ回想2009/05/21 01:54:26

今日から東京日仏学院で、ブルターニュ祭が開かれているのだった。行きたいなあ・・・・とため息をついていたら、今夜はすっかり、ブルターニュ恋しの気分に押しつぶされそうになってきた。

わたしが、生まれてはじめて、海に入ったのは、
20年前、ブルターニュの海。

そう、あの人に連れられて・・・・、
ブルターニュのどこに行くかとも聞くことなく、
フランスワーズおばさんとその家族がひと夏を過ごすヴィラに、
わたしたちは合流した。

モルレーまで列車で行き、そこからCARANTECまで、どうやっていったのだろう、まったく覚えていない。バスか車、だったんだろうな。

初めて見る欧州の海の色は、、鮮やかなようでいて、時折り翳りをささやくような、深淵な青の世界だった。

わたしたちは毎日、海辺に行った。
カトリーヌが貸してくれた水着の上に、紺地に白い小さな水玉模様のフレアースカートを着たままで、私は海で戯れた。

わたしたちが滞在したのは、いったいどこだったのだろうとWEBの大海のなかを探しまわったけれど、おぼろげな記憶に残る建物の外観に、ぴったりと寄り添ってくるような建物はなかった。

引き潮のころ、歩いてわたった島。
楽しいけんかをしながら上った灯台。
紫陽花の咲き乱れる小径を上り、眼下に海を見渡し、静かにたたずんだひととき。

あの、紫陽花の小径を、もういちど訪ねたい。

あの人に、来年あたり、そういってみよう。
あの人は、CARANTECの道筋を、覚えているだろうか。

だめかな。
方向音痴だものね。

見知らぬ土地で、いつも方角を決めるのは私だったよね。
まるで、頭の中に、方位磁針でも入ってるようだね、って、あの人はただただ感心してたもの・・・・